
2021.07.29
ドイツ挑戦!誰からも応援され愛される選手に!〜馬場雄大〜
初めまして!24歳の馬場雄大です。
ユウダイやバーユーと読んでください!
ポジションはボランチです。
好きな選手は、キミッヒ、ラーム、シャビ、ブスケツで、
得意なプレーは、頭を使ってプレーする事。
止める、蹴るという基礎技術には自信があります。
今回のブログはこんな僕が担当します。
最後まで読んで頂けると嬉しいです。
目次
自由に楽しんでサッカーをしていた小学生時代
僕は小学校1年生の頃に桜台SCというチームでサッカーを始めました。
チームの中では上手い方で僕を中心としたチームだったので、サッカーを自由に楽しんでました。
上の学年の試合にも常に呼ばれ調子に乗ってめちゃめちゃ王様気取りでした。
ただそんな中、5年生の時に県選抜に落ちました。
上には上がいる現実を感じ、本気でサッカーを辞めようとも考えました。
でもどんな時でも僕を応援してくれている家族や監督、コーチの存在に気がつくことができ、その存在が大きかったです。
そこからはがむしゃらにがんばりました。
そして6年生の時に転機がありました。
他の選手を見に来ていたヴィッセル神戸JrユースとC大阪Jrユースからオファーを頂けました。
この結果を得られたのも、小学校時代にお世話になった監督、コーチのお陰です。
この時の仲間はいまでも大切な友達として仲良くしています。
最終的にはヴィッセル神戸Jrユースを選択しました。

何度も挫折を経験した中学時代
ヴィッセル神戸Jrユースに入団でき、1年生の頃から上の学年の試合に絡んでいました。
コーチからサッカーを教えてもらえる事がとにかく嬉しくて、毎日が楽しかったです。
2年生になると、トップチームで練習はできるものの、スタメン起用とはならず、思うように試合に出れない日々が続きました。
少ない出場機会で何とか結果を残そうと気持ちばかりが先走り、思うような結果が出せず悩みながらサッカーをしていました。
そんな時に先輩の選手から「雄大は雄大のプレーをしたらいい。焦る事はない」と言われ、気持ちが楽になって自分のプレーに自信を取り戻すと試合に出る機会もどんどん増えてきて、さぁこれから!!とユース昇格をかけた最後の年を迎えました。

その春休みの試合中にボールを挟んで相手のキックを顔面に受けました。その結果、網膜剥離に。
最初の病院では、サッカーは諦めるように言われました。
サッカーが出来ないと言われ、涙が止まりませんでした。
サッカーの出来ない自分なんて考えることすら無理だったから。まだまだサッカーをやりたい。何とかならないのかと思っていると、監督、母親が必死に他の病院を探してくれました。
そこで見つけた病院の先生は「手術をして、3ヶ月間ガマンできたら必ずサッカーができる」と断言してくれました。
ユース昇格の大切な時期でしたが、とにかく手術を受けました。
最初の1週間は目をあまり動かせないのでテレビすら観れない日々、やっと少し動けても走ってはダメ!振動はなるべく与えないようにとトレーニングすらままならない日々が続きました。
でもとにかく3ヶ月ガマンすればサッカーができると信じて毎日を過ごしていました。チームでは後輩にポジションを奪われ、ユースに昇格できると信じていたけど、それもダメでした。
でもこの3ヶ月の時間は、自分ができる範囲でチームのために出来ることを考え取り組むといった自分のことだけではなく、チームの事を考え行動ができるようになった貴重な時間となりました。
何よりもサッカーがやりたくてやりたくてたまらない3ヶ月を過ごし、サッカーの出来ない人生はありえないと改めて実感した3ヶ月となりました。
そして、いざサッカーができるようになった日の自分の中での高揚感は今でも忘れることが出来ないものです。
それまでもプロになりたいと強く思っていましたが、ケガから復帰した日に、サッカーが出来ることの喜びを強く感じ、絶対にプロになると心に誓いました。
人としても成長できた高校時代
高校は、滝川第二高校に入学しました。
高校時代はサッカー以上に1人の人間としてとても成長出来たと思います。
クラブチームではあまりない先輩後輩の上下関係に戸惑い、先輩からの厳しい指導や時には嫌がらせ、顧問の先生との喧嘩など色々とありました。
初めのうちは、上手くいかない事があると自分は間違ってないと思い込み周りへの反発心ばかりを募らせていました。
そうなるとプレーの方にも影響が出てきて、なんだか上手く行かない日々が続きました。この頃は、精神的にもまだまだ未熟でした。
ただサッカーへの情熱は持ち続ける事ができていたので、どうすれば色んな事が上手くいくのかと常に自問自答を続け、先輩や先生の言葉をまずは受け入れることからはじめてみました。
そうすると「あっ、そういう考え方もあるか」と僕では考えつかないような事に気付かされたり、自分の意見や考えをどうすれば相手に伝える事が出来るのか、どうすればチームが上手くいくのかなどを常に考えるようになりました。
そして自分が先輩になった時には、後輩との関係性の築き方を考えたりと人間力が成長出来たのはこの3年間のお陰だと思います。
ただ、サッカーにおいては、インターハイでベスト8に入れたものの、最後の選手権前に怪我をしてしまい、満足に選手権を闘えなかったのは今までのサッカー人性で唯一の後悔です。

師匠と監督との出会い
高校卒業後は、専修大学に進学し、サッカーを続けました。
大学1年生の時に中々Bチームでも試合に出れなかったんですが、二つ上の先輩(師匠)に指導してもらっていました。
それから1ヶ月後サテライトチームのスタメンでIリーグに出場しました。そこからは常にスタメンとして出場していました。
全国大会出場を決める試合にも出場し決勝ゴールを決めたのは今でも思い出すと嬉しくて震えます。
そして、大学4回生時の監督との出会いが僕のサッカーを変えることとなりました。
チームを任され、練習メニューを組んだり、後輩への指導をしたりしたことで、自分自身の足りない物に気付かされました。
自分の足りない物を補うためのトレーニングを自主的に行いました。そして、今の自分を支える事となる技術を身につける事が出しました。
サッカーの技術面で1番上手くなった1年だと思います。


ドイツ挑戦を決意
いよいよ次のステップへの1歩を踏み出そうと考えた時に、日本のチームからもオファーを頂いていたのですが、それ以上に海外挑戦をしたいと強く思いました。
海外挑戦をするには年齢的に遅いかもとも考えましたが、
「やれる事をやりきれ」
「応援し続けるよ」と親や小学校時代の監督に言ってもらい、
よし、やろう!海外挑戦をしてプロになる!!と決意しました。
と同時にFCバサラマインツのセレクション募集をみて、ここだと直感で思い、セレクションをうけました。
そして、本来なら昨年の7月には渡独し、ドイツでプレーをするはずだったのが、コロナ禍で1年が過ぎてしまいました。
このコロナの期間は渡独に向けて、身体作り、技術面の向上のため、トレーニングをかさねました。
トレーニングを中心とした生活を送る中で、僕自身、今までの人生を改めて振り返る良い1年間にもなりました。
今まで、家族やトレーナー、チームメイト、友達など色んな方々に支えられ、応援されてやってきていると頭では分かっているつもりですが、この1年間でその支えや応援を強く感じ気付きました。
僕にはこんな力強い味方がたくさんいるんだ!と気づき、勇気づけられました。
そんな方々に感謝を伝える為には、言葉で感謝を伝える事はもちろんですが、素晴らしい、凄いと思ってもらえるプレーをし、努力を積み重ね、プロサッカー選手として活躍することが何よりも応援してくれている方々へ感謝を伝えることになると思っています。

そしてこれからも、がむしゃらにサッカーを楽しみ、サッカーを極め、誰からも応援され愛される選手となるよう頑張ります!!
FCバサラマインツの応援と僕の応援をよろしくお願い致します。
皆様の応援に答えれる選手となり僕も皆様の事を応援します。
これからの僕に、期待して下さい!!
最後まで読んで頂きありがとうございました。